東京都中央区勤務のワーキングマザーがいろいろのたうちまわった記録

育児も会社勤めも個人事業主も自己研鑽も趣味も全部やってやる、と試行錯誤している日々の記録です。子どもの話、仕事の話、ガジェットの話、日々思ったことなどを書いていっています。

30代のいとこが突然死しました。

8/10(土)に母から電話があり、突然「K君が死んだって。」と一報をもらいました。道を歩いていたのですが、あまりにびっくりしてしまって立ち止まってしまいました。

母の弟の息子さんで、33歳。

会社に出社してこなくて、会社の方が電話を掛けたがつながらず、家に行ってみたら死んでいたそう。警察からは事件性なしと判断され、医師からは朝方死んだようだね、と言われたとのこと。死因は不明で、解剖はせず。病歴もないし、死につながるようなことに親族みんな心当たりもない。

医学は専門外ですが、ネットで軽く検索すると「青壮年突然死症候群」なるものがヒット。これなのかなぁ、とぼんやり思う。

 

私が小学生のころ、「komaちゃん、komaちゃん!」と慕ってくれて、母方の祖父母の家に行ったときに一緒に遊んだ記憶があります。東北地方の強烈な真冬でも、家の中では上下のトレーナー1枚に素足で遊び、外に出るときは羽織物を1枚羽織って出る、そんな元気でやんちゃな男の子でした。母方の祖父母の家は、当時私が住んでいたところからだいぶ遠かったので、私が小学生のときに会って以降全く会わず話さず、最後に姿を見たのは昨年の9月でした。昨年の9月も一言も話すことなく、少し離れたところから姿を見ただけでしたが、背がすごく高くなっていてすらっとしていた姿を見て、大きくなったなぁ、と思ったのを覚えています。

 

K君はもういないのに、当たり前なんだけど世界は変わらずここにあって時間も流れている、ということにすごく違和感というかなんだかちょっと小さな引っかかりを感じています。改めて、人って簡単に死んでしまうことや、いつ来るかわからないけど確実に自分を含めて死ぬということをより自分事として感じています。

 

だからどうしたって、別にどうもしないのですが、明日突然、大事な人とお別れすることになってもきっと思い残すことはないだろう、と思える日々を過ごしていきます。

 

私は死に顔は見ていないのですが、叔母曰く、とてもきれいな顔だったとのこと。K君には好きな人がいて、周りもそれに気づいていて、一緒にしてやれ、などとちょっとおせっかい(?笑)をしていたとも。

 

K君のお母さんは、ものすごく嘆き悲しんでいる様子。少し前にK君が誕生日だったので、LINEでおめでとうを送って既読がついたのを確認したのが最後とのこと。K君のお父さんも、何もなく突然死んでしまった、と。私の母もショックな様子。

 

明日死ぬ可能性があるんだからと刹那的に生きるのではなく、明日以降も今日と変わらずずっと生きているという前提で生きるんだけど、振り返った時にこれ以上幸せな時間はないと思える時間にしていく過ごし方をしていきたい。